2. 夢十夜第三夜(夏目漱石作)の盲目の小僧を解説します

まず、結論から言います。

夏目漱石が書いた「夢十夜」の「第三夜」に出てくる盲目の小僧の正体は「日本」です。

より正確に言えば「夏目漱石にとっての古い日本」です。

「夢十夜」の「第三夜」を読んだことがない方も多くいらっしゃると思うので、理由を説明する前にまず「夢十夜」の「第三夜」を読んでみてください。文庫本で2ページくらいの作品なのですぐ読めます。

青空文庫さんから引用しました。改行を加えて読みやすくしています。それではどうぞ:

夢十夜

第三夜

こんな夢を見た。
 
 六つになる子供をおぶってる。たしかに自分の子である。ただ不思議な事にはいつの間にか眼がつぶれて、青坊主あおぼうずになっている。自分が御前の眼はいつ潰れたのかいと聞くと、なに昔からさと答えた。声は子供の声に相違ないが、言葉つきはまるで大人おとなである。しかも対等たいとうだ。
 
 左右は青田あおたである。みちは細い。さぎの影が時々やみに差す。

田圃たんぼへかかったね」と背中で云った。
「どうして解る」と顔をうしろへ振り向けるようにして聞いたら、
「だってさぎが鳴くじゃないか」と答えた。
 
 すると鷺がはたして二声ほど鳴いた。
 
 自分は我子ながら少しこわくなった。こんなものを背負しょっていては、この先どうなるか分らない。どこか打遣うっちゃる所はなかろうかと向うを見ると闇の中に大きな森が見えた。あすこならばと考え出す途端とたんに、背中で、

「ふふん」と云う声がした。
「何を笑うんだ」

 子供は返事をしなかった。ただ

御父おとっさん、重いかい」と聞いた。
「重かあない」と答えると
「今に重くなるよ」と云った。
 
 自分は黙って森を目標めじるしにあるいて行った。田の中の路が不規則にうねってなかなか思うように出られない。しばらくすると二股ふたまたになった。自分はまたの根に立って、ちょっと休んだ。

「石が立ってるはずだがな」と小僧が云った。

 なるほど八寸角の石が腰ほどの高さに立っている。表には左りくぼ、右堀田原ほったはらとある。やみだのに赤い字があきらかに見えた。赤い字は井守いもりの腹のような色であった。

「左が好いだろう」と小僧が命令した。左を見るとさっきの森が闇の影を、高い空から自分らの頭の上へげかけていた。自分はちょっと躊躇ちゅうちょした。

「遠慮しないでもいい」と小僧がまた云った。自分は仕方なしに森の方へ歩き出した。腹の中では、よく盲目のくせに何でも知ってるなと考えながら一筋道を森へ近づいてくると、背中で、「どうも盲目は不自由でいけないね」と云った。

「だからおぶってやるからいいじゃないか」
「負ぶってもらってすまないが、どうも人に馬鹿にされていけない。親にまで馬鹿にされるからいけない」

 何だかいやになった。早く森へ行って捨ててしまおうと思って急いだ。

「もう少し行くと解る。――ちょうどこんな晩だったな」と背中で独言ひとりごとのように云っている。
「何が」ときわどい声を出して聞いた。

「何がって、知ってるじゃないか」と子供はあざけるように答えた。すると何だか知ってるような気がし出した。けれども判然はっきりとは分らない。ただこんな晩であったように思える。そうしてもう少し行けば分るように思える。分っては大変だから、分らないうちに早く捨ててしまって、安心しなくってはならないように思える。自分はますます足を早めた。

 雨はさっきから降っている。路はだんだん暗くなる。ほとんど夢中である。ただ背中に小さい小僧がくっついていて、その小僧が自分の過去、現在、未来をことごとく照して、寸分の事実もらさない鏡のように光っている。しかもそれが自分の子である。そうして盲目である。自分はたまらなくなった。

「ここだ、ここだ。ちょうどその杉の根の処だ」

 雨の中で小僧の声は判然聞えた。自分は覚えず留った。いつしか森の中へ這入はいっていた。一間いっけんばかり先にある黒いものはたしかに小僧の云う通り杉の木と見えた。

御父おとっさん、その杉の根の処だったね」
「うん、そうだ」と思わず答えてしまった。
「文化五年辰年たつどしだろう」

 なるほど文化五年辰年らしく思われた。

「御前がおれを殺したのは今からちょうど百年前だね」

 自分はこの言葉を聞くや否や、今から百年前文化五年の辰年のこんな闇の晩に、この杉の根で、一人の盲目を殺したと云う自覚が、忽然こつぜんとして頭の中に起った。おれは人殺ひとごろしであったんだなと始めて気がついた途端とたんに、背中の子が急に石地蔵のように重くなった。

夢十夜

読むたびに怖っ!と思っていたのですが、ある時に「文化五年辰年」って何があったんだろう?と思いました。

夢十夜が書かれたのが1908年、その「ちょうど100年前」が1808年、文化五年ということも検索の結果分かりました。

そして「文化五年」をググってみたらWikipediaでこの一文を見つけました:

文化5年(1808年)8月: イギリス船フェートン号が長崎に来航、長崎奉行松平康英が引責自殺(フェートン号事件)。

Wikipedia

2007年に書かれた斎藤兆史(よしふみ)さんの「日本人と英語:もう一つの英語百年史」を読んでいた自分はラッキーでした。

この本を読んでいたおかげで文化五年のフェートン号事件の意味を知っていたからです。

まずフェートン号事件とは何だったのでしょう。

前回のラナルド・マクドナルドを掘り下げた記事でも触れたのですが、フェートン号事件とは、オランダ国旗を掲げて長崎に入港したイギリスの軍艦フェートン号がオランダ商館員2名を拉致し、薪水、食料を要求し、為すすべを持たない佐賀藩兵は要求を飲まざるを得なかった事件です。上記の通り引責自殺した人までいました。

この事件に衝撃を受けた幕府は長崎の通詞(通訳)にロシア語と英語の修学を命じます(ロシアからは通商を求める声があったり、かなりゴタゴタがありましたが、ここでは省きます)。

要するに文化五年辰年に起きたフェートン号事件をきっかけに日本の英語教育が開始された、ということを「日本人と英語:もう一つの英語百年史」を読んで私は知っていたのです。

フェートン号事件をきっかけに日本と英語の関係が開かれた、と言えるとも思うのですが、このあと日本にとっての英語(もしくはイギリスとアメリカ)の認識はどのように変化していくのでしょうか。時系列で見てみましょう。

1814年:日本初の英和辞典、「諳厄利亜(あんげりあ)語林大成」の完成

Wikipedia

1814年の段階ではまだここです。まず、日本は英和辞典さえ持っていませんでした。オランダ人の助けを借りてなんとか英和辞典を作ります。その後は少し穏やかな時代が続くのですが、日本が西洋を本気で気にしなければならい事件が起こります。

1840年:アヘン戦争始まる(~42年)。南京条約により、上海など5港を開港し、香港を割譲。

翻訳と日本の近代

翻訳と日本の近代」の中で加藤周一さんは丸山真男さんにこう言っています:

加藤:アヘン戦争で英国に敗れたのは中国なのに、中国人よりも、幕末の日本人のほうが熱心に英国事情を知ろうとしていましたよね。

翻訳と日本の近代

昔から知っている大国がいとも簡単に英国に負けてしまいました。そして日本は侍が統治する国です。武力の差を瞬時に理解したのではないでしょうか。ここで日本は本気で英国のことを知らなければならない状況になってしまったのです。そしてその後何が起こるでしょうか。まとめまて書きます:

1848年:英語を母国語とする母語話者ラナルド・マクドナルドによる英語教育(日本初)
1851年:ジョン万次郎の帰国
1853年:ペリー日本来航
1867年:大政奉還

かなり端折っていますが、日本は大急ぎで英語を学んでペリーを迎えます。1840年以降は日本にとって、とても「濃い」時代が続きます。ちなみに1867年は漱石が生まれた年でもあります。

そして時代は明治となっていくのですが、何しろ和魂洋才の時代なので欧米の知識をどん欲に取り込んでいった時代が続いていきます。

この欧米の知識をどん欲に取り込んでいく流れの一番最初のきっかけが「フェートン号事件」なのです。

夢十夜に話をつなげます。盲目の小僧は「御前がおれを殺したのは今からちょうど百年前」の「文化五年辰年」と言っています。

このフェートン号事件で「殺された」のは誰だろう?と自分は問いかけました。

オランダと交易していればいい、他の国々と交易する必要はない、そうすれば平和でいられる、と思っていた「盲目的」で、国力の差で見たら西欧が大人としたら「小僧」—言葉つきだけは大人ですがーの「日本」が殺されたのではないでしょうか。

もちろん、この夢は漱石が見た夢なので「漱石にとってのフェートン号事件が起きるまでの日本」が「声だけは大人で盲目の小僧」ということになる、と私は考えます。

漱石は英語教師でもありました。漱石ほど幅広い知識を持っていた人が1908年までの英語教育史としてフェートン号事件を知らなかったわけはなく、また、この事件がきっかけとなって英語教育が開始された事実だって漱石が知っていたことは容易に推測できます。

そして当たり前の話ですが漱石は日本人です。イギリスに留学までした「西洋化」した日本人です。漱石が生きた頃の日本ではかなり「進んだ」、「西洋化」した日本人でしたが、明治天皇が崩御した後に切腹した乃木希典に心を大きく動かされる日本人でもあるのが漱石です(小説「こゝろ」)。

この両面性は漱石の魅力でもあります。西洋化に成功してロシアに勝っても、小説の登場人物に日本は「滅びるね」なんて言わせてしまうのが漱石です(小説「三四郎」)。無理して西洋化を続けて背伸びをしている日本を冷徹な目で見ながら、古くからある日本の価値観も「捨てない」のが漱石です。

盲目の小僧がことごとく見透かしてくる、というのは漱石が日本人であるという自明の事実と対応しているように私は思えてきます。

そして漱石が背負っている盲目の小僧—私の解釈では漱石の「日本」—が「自分の過去、現在、未来をことごとく照して、寸分の事実もらさない鏡のように光って」いるのだから、漱石は「たまらなく」なってしまいます。

ついに「その杉の根の処」に着いた漱石に盲目の小僧は言います:

御父おとっさん、その杉の根の処だったね」
「うん、そうだ」と思わず答えてしまった。
「文化五年辰年たつどしだろう」

 なるほど文化五年辰年らしく思われた。

「御前がおれを殺したのは今からちょうど百年前だね」

 自分はこの言葉を聞くや否や、今から百年前文化五年の辰年のこんな闇の晩に、この杉の根で、一人の盲目を殺したと云う自覚が、忽然こつぜんとして頭の中に起った。おれは人殺ひとごろしであったんだなと始めて気がついた途端とたんに、背中の子が急に石地蔵のように重くなった。

夢十夜

そして百年前に「一人の盲目」を殺した、と自覚します。自分が「人殺しであったんだな」と気づいた途端に「背中の子が急に石地蔵のように重く」なります。

夢の中の殺人、とはどういう意味を持つのでしょう。私はユング研究所で日本人として初めて分析家の資格を授与された河合隼雄さんの熱心な読者なので、殺されたのは「自分の感情の一部」と考えます。そして殺している、殺人しているのもまた自分自身、と考えると夢の中の殺人が理解できることが往々にしてあるようです。

以前、筒井康隆さんが頻繁に殺人をしてしまった夢を見ることを河合隼雄さんに相談したら「殺されているのも自分でしょうね」と言われて筒井さんは、役者をやりたがっていた感情を殺してしまっていることに気づいた、という話を読んだことがあります。出典が探せなかったのですが、茂木健一郎さんもこの話を覚えてくれていました:

漱石が百年前に殺してしまったと思ったのは漱石自身の「古き良き日本」に対する愛情、ではないでしょうか。

フェートン号事件という小さなきっかけだったかもしれませんが、その後に続くペリーの来航や明治維新という怒涛の時代の中、日本全体が「古き良き日本」を積極的に殺していったように思います。

その頃のそんな現実を漱石は認識していたからこそ漱石はこんな夢を見たのではないでしょうか。

日本人である漱石が「日本」を捨てることはできません。百年前に殺したこの盲目の小僧は石地蔵のように漱石の背中にのしかかります。

漱石が生きた時代に漱石は誰よりも西洋的自我を理解していたといってもいいと思います。また、日本的な価値観も否定しないのが漱石です。そして河合隼雄的に言えば西洋的父性と日本的母性の狭間で胃を痛める漱石を愛してやまない日本人は私も含めて多いのではないでしょうか。

もう少し掘り下げさせてください。

「その杉の根の処」に着く前に道が二股になっていました:

「石が立ってるはずだがな」と小僧が云った。

 なるほど八寸角の石が腰ほどの高さに立っている。表には左りくぼ、右堀田原ほったはらとある。やみだのに赤い字があきらかに見えた。赤い字は井守いもりの腹のような色であった。

夢十夜

小僧は「左が好いだろう」と漱石に命令しました。要するに日ヶ窪の方向に行ったのですが、この「日ヶ窪」という地名も「日本」に対応しているように私は思ってしまいます。イモリの腹のように「赤い字」も日本を想像させます。

日ヶ窪は実際にあった土地の名前で「江戸町巡り – Ameba Ownd」によると、現在の「港区六本木五丁目9・10番、六丁目4、7~14番」だそうです。この「江戸町巡り」の日ヶ窪の説明にはこうあります:

町内には毛利甲斐守邸があり、この邸内では忠臣蔵の赤穂浪士のうち10名が切腹をした。また、乃木希典生誕の地でもある。

江戸町巡り – Ameba Ownd

「乃木希典生誕の地」!と驚いたのですが、夢十夜が書かれた1908年(明治41年)なら乃木さんは生きています。

ただ、不思議なシンクロを感じてしまう自分もいます。

もう少し掘り下げさせてください。なぜ盲目の小僧は6歳なのでしょう。夢十夜が書かれたのが1908年なので1902年生まれの子供、ということです。1902年から1908年の間に日本と漱石に何があったのでしょう。Wikipediaを引用します:

1902年:1月30日 – 第1次日英同盟調印・発効
1903年:1月23日-夏目漱石が、文部省留学生としての英国留学から帰国。
1904年:2月4日 – 日露戦争: 御前会議で対露交渉の断絶と軍事行動の開始を決定
1905年:8月10日 – 日露戦争:日露講和会議開催(日露戦争終結)
1905年:8月12日 – 第2次日英同盟が調印
1905年:夏目漱石「吾輩は猫である」執筆
1906年:夏目漱石「坊ちゃん」「草枕」執筆
1907年:夏目漱石朝日新聞社入社。本格的に職業作家としての道を歩み始める。
1908年:夏目漱石「坑夫」「文鳥」、「夢十夜」「三四郎」執筆

Wikipedia

日本にとっても、漱石にとっても濃密な6年間だったと思います。特に日露戦争を挟んでいるところが濃いですね。

漱石も完全に職業作家としての立場が出来上がっています。

先に挙げた「日本人と英語:もう一つの英語百年史」ではこの時代を「明治後期の英語」の章で、当時発刊した大量の英語雑誌などを紹介しながらこんな風に表しています:

本項で述べた事例が物語っているのは、教育の大衆化と日英同盟締結、日露戦争後の英語ブームのなかで英語が商品化し、英語研究・学習が政府の手を離れて産業として自立したということである。

日本人と英語:もう一つの英語百年史(p.20)

日露戦争に(辛うじて)勝利し、日英同盟もあって英語ブームが起こって産業化し、漱石は職業作家としてほぼ不動の地位を築きあげていた時期が1902年から1908年だったと私は思います。

そんな頃に夢十夜第三夜のような夢を見てしまうのが漱石らしい、と私は思います。「古い日本」、または「こんなものを背負しょっていては、この先どうなるか分らない」から捨ててしまおう、と思ったものの、盲目の小僧は石地蔵のように重くのしかかります。

以上、漱石が見た盲目の小僧の正体は日本、という私の主張をご理解いただけたでしょうか。色々反論はあると思いますが、こんな意見もある、くらいに思ってくれたら嬉しいです。

しつこいようですが、その後の漱石について若干触れさせてください。

この夢を見た4年後の1912年に明治天皇が崩御し、1913年には漱石のひどいノイローゼが再発(Wikipedia)、そして1914年に「こゝろ」の連載が開始されます。大政奉還の年に生まれた漱石は乃木希典の切腹に大きく心を打たれました。

「こゝろ」の最終章を読んでみたら、「こゝろ」の主人公は明治の精神と共に死んで古き良き日本へ帰ろうとしているように思えてきました。乃木さんについて触れている部分を引用してこの記事を終わります:

 すると夏の暑い盛りに明治天皇めいじてんのう崩御ほうぎょになりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、そのあとに生き残っているのは必竟ひっきょう時勢遅れだという感じがはげしく私の胸を打ちました。私は明白あからさまに妻にそういいました。妻は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然私に、では殉死じゅんしでもしたらよかろうと調戯からかいました。

 私は殉死という言葉をほとんど忘れていました。平生へいぜい使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだまま、腐れかけていたものと見えます。妻の笑談じょうだんを聞いて始めてそれを思い出した時、私は妻に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。私の答えも無論笑談に過ぎなかったのですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たような心持がしたのです。

 それから約一カ月ほどちました。御大葬ごたいそうの夜私はいつもの通り書斎にすわって、相図あいず号砲ごうほうを聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。後で考えると、それが乃木大将のぎたいしょうの永久に去った報知にもなっていたのです。私は号外を手にして、思わず妻に殉死だ殉死だといいました。

 私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったものを読みました。西南戦争せいなんせんそうの時敵に旗をられて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日こんにちまで生きていたという意味の句を見た時、私は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえて来た年月としつきを勘定して見ました。西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。乃木さんはこの三十五年のあいだ死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私はそういう人に取って、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那いっせつなが苦しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。

 それから二、三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由がよくわからないように、あなたにも私の自殺する訳が明らかにみ込めないかも知れませんが、もしそうだとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません。あるいは箇人こじんのもって生れた性格の相違といった方がたしかかも知れません。私は私のできる限りこの不可思議な私というものを、あなたに解らせるように、今までの叙述でおのれをつくしたつもりです。

こゝろ
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