1. ラナルド・マクドナルド(「日本人と英語:もう一つの英語百年史」から)

2007年に書かれた斎藤兆史(よしふみ)さんの「日本人と英語:もう一つの英語百年史」で斎藤さんは、日本人と英語の関係を江戸時代まで遡ってから、日本における英語教育の変遷を現代までひも解いてくれます。英語教育に携わる方々にはぜひ読んでもらいたい本です。この本で知ったラナルド・マクドナルドについて書きます。

日本で初めて本格的に英語を教えてくれた英語の母語話者は表題のラナルド・マクドナルドと言ってもいいと思うのですが、厳密にいうと、その前にも英語を教えることが出来る人が一人いました。ウィリアム・アダムズというイギリス人です。西暦1600年、関ヶ原の戦いの開始6ヵ月前に大分県に漂着したイギリス人です。ウィリアム・シェークスピアと同い年の彼は三浦按針という名前をもらっています。Wikipediaによると家康の下、造船などで活躍したようですが、晩年は不遇の人生であったようです。

アダムズが亡くなったのが1620年。そして1639年のポルトガル船来航禁止令をもって日本は完全に鎖国し、それから日本は170年間英語と無縁だったのですが、文化五年(1808年)、フェートン号事件が起こります。オランダ国旗を掲げて長崎に入港したイギリスの軍艦フェートン号はオランダ商館員2名を拉致し、薪水、食料を要求し、為すすべを持たない佐賀藩兵は要求を飲まざるを得ませんでした。この事件に衝撃を受けた幕府は長崎の通詞(通訳)にロシア語と英語の修学を命じます。日本の英語教育はここから開始します。

とはいえ、辞書もない状態でどうやって英語を学んだらいいのでしょうか。私としてはオランダ語、というかなり英語に近い言語を学んでいる人々が日本にいたのは幸いであったように思います。

英語に堪能だったオランダ人、ヤン・コック・ブロンホフの助けや、大通詞(通訳)、本木庄左衛門の代々家に伝わる英蘭対訳の学術書などを参考に、文化八年(1811年)、「諳厄利亜興学小筌」(あんげりあこうがくしょうせん)を完成させ、その三年後、日本初英和辞典と言っていい、「諳厄利亜語林大成」(あんげりあごりんたいせい)を完成させます。

しかし、この時点では英語を母国語とする母語話者による英語教育を日本人は受けたことがありません。

ここで登場するのがラナルド・マクドナルド(Ranald McDonald)です。斎藤さんはこう書いています:

日本に最初にやってきた英語話者が先述のウィリアム・アダムズだとすれば、日本で初めて本格的に英語を教えた母語話者は、ラナルド・マクドナルド(Ranald McDonald 1824~94)という混血のアメリカ人であった。彼は、ネイティブ・アメリカンの母親の祖先が日本人であると固く信じ、「故郷」日本を訪れるためにアメリカの捕鯨船に乗り込んだ。

日本人と英語:もう一つの英語百年史(p.6)

マクドナルドは嘉永元年(1848年)7月1日、利尻島に上陸しますが、彼は捕らえられて同年に長崎送りになります。

ラナルド・マクドナルドは捕らわれていますが、同時に貴重な英語話者でもあります。座敷牢に囚われたマクドナルドはなんと格子越しに英語を教えました。

この時の教え子の一人に森山栄之助がいます。マクドナルドは彼の英語力を「とりわけ見込んだ」ようです。ペリーが日本に来航し、「日本遠征記」を残していますが、森山の英語を評して:

“He speaks English well enough to render any other interpreter unnecessary”
DeepL翻訳:彼は、他の通訳が不要なほど英語が堪能です。

日本人と英語:もう一つの英語百年史(p.6)

と書いているので森山の英語力は相当なものだったのでしょう。

マクドナルドが日本に来たのが1848年、ジョン万次郎がアメリカ漂流を経て帰国したのが1851年、ペリーが日本に来航したのが1853年なので、日本は「ぎりぎり」で英語力を準備していたわけです。

私はこの斎藤さんの著書、「日本人と英語:もう一つの英語百年史」で初めてラナルド・マクドナルドを知り、俄然、興味が湧いたのでWikipediaでもう少し彼のことを調べました。

ただ、マクドナルドを掘り下げる前に、上記の「He speaks English well enough to render any other interpreter unnecessary」と森山栄之助を評した「日本遠征記」(A JOURNAL OF THE PERRY EXPEDITION TO JAPAN (1853- 1854) BY S. WELLS WILLIAMS)の原本をネットで見つけたので、周辺の文章も合わせて引用します(日本語訳を先に載せます。原文を読まなくてもいいです):

DeepL翻訳:三郎助には森山栄之助という新しい優秀な通訳が付き、彼は最近長崎から帰ってきて、25日後に到着し、そのまま急いだ。彼は他の通訳を必要としないほど英語が堪能で、我々の交流に大いに役立つだろう。彼は「プレブル号」の船長と士官を尋ね、ロナルド・マクドナルドが元気かどうか、あるいは我々が彼を知っているかどうかを尋ねた。彼は機械を調べ、最後に士官室で夕食をとり、彼の教育や育ちのよさを私たちに印象づけた。

A new and superior interpreter came with Saboroske, named Moriyama Yenoske, who had recently returned from Nagasaki, whence he arrived in twenty-five days and hurried on at that. He speaks English well enough to render any other interpreter unnecessary, and thus will assist our intercourse greatly. He inquired for the captain and officers of the ” Preble,” and asked if Ronald McDonald was well, or if we knew him. He examined the machinery and at last sat down at dinner in the ward room, giving us all a good impression of his education and breeding.

A journal of the Perry Expedition to Japan (1853-1854)

森山栄之助が「ロナルド・マクドナルドが元気かどうか、あるいは我々が彼を知っているかどうかを尋ね」たのがなんとも微笑ましくないですか。正確には「Ronald」ではなく「Ranald」ですが。

ラナルド・マクドナルドに話を戻します。

上記の通りフェートン号事件以来、日本人は英語学習を開始しています。ある程度の英語の知識はあるわけです。そんな中でマクドナルドはどのように英語を教えたのでしょう。Wikipediaを引用します:

日本の英語教育は幕府が長崎通詞6名に命じた1809年より始まっていたが、その知識はオランダ経由のものであったことから多分にオランダ訛りが強いものであった(「name」を「ナーメ」、「learn」を「レルン」と、綴りをそのまま発音していたなど)。マクドナルドの指導法は最初に自身が単語を読み上げた後に生徒達に発音させ、それが正しい発音であるかどうかを伝え、修正させる、というシンプルなものだった。

ラナルド・マクドナルド

このシンプルな指導でマクドナルドはとても重要な(と私には思える)ことに気づいています。それは日本人にとって「L」と「R」の発音の区別が難しいということでした。

日本人英語学習者にとって今でも難しいのが「L」と「R」の発音ですね。

マクドナルドの日本滞在は結局1848年7月1日から1849年4月26日までの一年足らずなのですが、「日本が未開社会ではなく高度な文明社会であることを伝え、のちのアメリカの対日政策の方針に影響を与えた。」とWikipediaにあるので、日本にとっても貴重な人物だったとも言えます。ちなみにマクドナルドが乗船した帰りの船が「プレブル号」です。

とにかく活発な人物だったようで世界中を航海したようです。ただ、英語版のWikipediaによると晩年はあまり裕福ではなかったようです。英語版の方を引用します:

He died a poor man in Washington state in 1894, while visiting his niece. His last words were reportedly “Sayonara, my dear, sayonara…”

DeepL翻訳:1894年、姪を訪ねてワシントン州で貧しいまま亡くなった。最後の言葉は、”Sayonara, my dear, sayonara… “だったと伝えられている。

Ranald MacDonald

彼が息を引き取るまで日本に好印象を持っていたのがわかります。

最後に彼の墓石に刻まれた言葉をWikipediaから引用します:

RANALD MacDONALD 1824–1894
SON OF PRINCESS RAVEN AND ARCHIBALD MacDONALD
HIS WAS A LIFE OF ADVENTURE SAILING THE SEVEN SEAS
WANDERING IN FAR COUNTRIES BUT RETURNING AT LAST TO REST IN HIS HOMELAND. “SAYONARA” – FAREWELL

DeepL翻訳:ラナルド・マクドナルド 1824-1894
プリンセス・レイヴンとアーチバルド・マクドナルドの息子。
彼は7つの海を航海する冒険の人生であった。
遠い国をさまよいながらも、最後は故郷に帰ってきて休息した。
“サヨナラ” – さらば

Ranald MacDonald
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